新聞記者、辞めました。

新聞記者、辞めました。

新聞記者、辞めました。でもなんやかんや新聞やメディアが好き。社会のいろんなこと考えていたいゆとりの戯れ言。

記者失格なことを見抜かれていた話<#10>

 

2023年2月8日の朝。
朝刊の社会面を流し見していた目が止まった。

保育所で乳児死亡 遺族「うつぶせ、窒息」
警視庁捜査 東京・世田谷

mainichi.jp

私は「ああ、まただ」と思った。

14年前のいくつかの映像が思い出される。
高校から帰宅すると、母はおらず、代わりにテーブルの上にスーパーの弁当が置かれていた。白い書き置きのメモには、悪筆な母のさらに震えるような字で「はるちゃんが亡くなったので 病院に行ってきます」とだけ書かれていた。

姪のはるちゃんは、保育所でうつぶせ寝で亡くなっていた。
生後4カ月だった。

家に帰ってきたはるちゃんを抱っこした。冷たくて軽かった。
解剖で臓器が取り除かれていて、代わりに綿などの詰め物がされているんだと兄は教えてくれた。

葬儀で、初めて泣く父を見た。

火葬炉の点火スイッチを押す、兄と義姉の背中。

2016年6月末。
新聞記者1年目の私は、勤務中にデスクからの電話で過呼吸になり自分が担当している警察署に救急車を呼ぶという、前代未聞(自称)の失敗をやらかした。
試用期間の身であるにもかかわらず、早々に警察担当への適正のなさが露呈してしまった。

……う~ん。違う。

警察担当どころか、記者適性がなかった。
そして上司であるデスクは、そのことを早々に見抜いていた。

yutori-zaregoto.hatenablog.com

出勤簿上の時間外労働が150時間を超える生活から一変し、朝9時出社・17時退社になった。
残業はもちろん一切無し。土日祝出勤、宿直もなし。
(一応所属は警察班だけれども)突発的事案の対応もなし。

運転中に過呼吸になってしまったので車はNGだと判断されたため、取材は電車やバス、自転車を使う。
取材するのは街ダネや各班に持ち回りで巡ってくる特集。
取材が無い日は、記者クラブでの記事のスクラップをするように命じられた。
待遇は完全に“お荷物社員”“社内ニート”たる、それ。

正真正銘「ゆとり記者」な生活がスタートして以来、デスクとは何度かランチという名の面談をした。

この日は、県警近くの洋食屋だった。カウンター席に横並びに座る。
警察担当にもかかわらず突発事案の対応ができなくなった私に、何か企画でもやらせようかと思ったのか、興味のあることややってみたい取材はないかと聞いてきた。

その日の詳細なやり取りは思い出せないのだが、手帳(兼日記)には断片的ながらメモを残していた。

SIDSの会―東京

正しくは、「SIDSかぞくの会」。

SIDSとは元気だった赤ちゃんが睡眠中に突然亡くなってしまう「乳幼児突然死症候群」という病気のこと。姪の死因について、母からは「赤ちゃんに起きてしまう突然死だったのではないか」と聞いた。
SIDSは窒息事故とは別のものだが、あお向けよりもうつぶせに寝かせたときの方が SIDS の発症率が高い。
あおむけに寝かせることは「睡眠中の窒息事故を防ぐ上でも有効」と厚労省のサイトにも記載がある。

SIDSかぞくの会は、SIDSや事故、流産、死産などで子どもを亡くした家族への精神的援助や、SIDSに関する知識の普及に取り組んでいるNPO法人だ。

デスクに「やってみたい取材は」と聞かれた当時の私は、はるちゃんのことを思い浮かべながら、SIDSや保育事故について答えた(のだと思う。記憶にはない)。

それに対するデスクの答えが、「SIDSの会―東京」のメモの隣に書き記されている。

いつかやるーと思うのはいいけど
→私にはまだできないことを十分に自覚しないとダメです。
私の取材・執筆スキルじゃ無理。

そしてその上部には、ぐるぐると何重にも丸で囲った中に

口は災いのもと。

と書き殴ってあった。

自分よりも幼い命が先に亡くなるという経験を経て、私にならきっと意味のある記事が書けると思う。そうデスクに伝えたことを私は「口は災いのもと」と結論づけていた。

普通の精神状態だったなら、デスクに「まだお前にはできない」と言われたら「今は基本的な取材力や執筆力を磨きなさい」という意味なんだと受け取れたはず。

ただ、もうすでにデスクから記者の戦力外通告も受けている。
「まだお前にはできない」、つまり「お前にできる日は来ない、やる資格はない」と一蹴されたと感じた。

きっと、だからこの日の出来事を「口は災いのもと」と表現したんだと思う。

なんのために記者になったんだっけ?
この頃から、自分の心を満たしていたはずのいろんな価値観や芯や、好きなもの、興味関心、趣味ですら、ひとつひとつ、いつの間にか消えて無くなっていくような感覚を何度も味わうようになった。

その5カ月後の2016年12月、私は市内の大学で開かれた保育事故に関する講演の取材を担当する。
講演者は、5才の息子さんを保育事故で亡くした夫婦だった。

ただ、この取材は「獅子、こういう講演あるけど行ってみるか」とデスクから声をかけられたわけでも、私から「こんな講演があるので行っていいですか」と手を上げた訳でも無い。
前述の通り、私は警察班でありながら本来なら警察班以外が担当する街ネタも割り振られていた。
たまたま、私にその担当が回ってきただけなのである。

講演後、夫妻のもとに話を聞きに行った。
「実は私も…」と姪のことを伝えると、兄夫婦への心配の言葉をかけてくれた。
追加取材は10分少々だっただろうか。
講演内容の補足と、夫妻の生年月日を聞いて講義室を後にした。

記事を書いてデスクに送ったあと、何かやり取りをした記憶はない。

うちの県でも保育事故は起きていたこと、保育や教育現場での子どもの死を防ぐための取り組みをしている人がいることを知った。
「もっと詳しく取材がしたい」という気持ちが芽生えなかったわけでは無かった。
それよりもある種の満足感のほうが勝った。役目を果たせた、と思った。この会社でやれることはやったんだ、と。

データベースで夫妻の名前を検索すると、同様の講演やインタビューの記事が複数出てきた。

「なぜ、今、私が、保育事故の記事を書く意義があるか」を説明するための材料を探していたはずだった。
でも、脳内にいる架空のデスクによる「本当にできるのか」という反証に耐えうる覚悟もやる気もないことに気がつく。
いつしか、「やっぱり私はできないな」「そもそもやる必要はないんだな」と自己完結させるための理由を探していた。
そして、私が書く理由はない。もう十分なんだ。と結論づけた。

就活生のころ、はるちゃんのことはマスコミ採用試験の作文で何度も何度も書きまくった。

ゼミ指導の先生が元新聞記者で、記者を目指す学生を集めて就活対策グループをつくっていた。
そこで宿題で出された作文のテーマが「悼む」。
近所のマックで泣きながら800字の文章にしたためた。
後日、学生たちで互いの作文を論評し合う場で、私の「悼む」は良い評価を得た。

誰かが、マスコミの作文は「ある程度得意な自分の“型”を持っておき、テーマに合わせてうまく使い回すといい」と言っていた。

シメた、と思った。私の“型”はこれだと思った。

「死」「生きる」「弔い」といったテーマの類の作文には、とことんはるちゃんを登場させた。

入社した地元新聞社の作文でも書いた。
受験生の3割ぐらいは東日本大震災について書くんだろうなと勝手に予測を立て、姪の死を書いた私の作文は目立つだろうと思った。

「受かっただろう」。そう思った。

大学4年生の10月、内定式に出席するため大学のある横浜から実家へ帰省した。

「はるちゃんをネタにした」

「はるちゃんで内定を取った」

仏壇のはるちゃんの写真と目を合わせられない。
じわじわと、もやが広がる。

内定式を終えても、すぐ横浜に戻る気持ちになれなかった。
先生にゼミの欠席を伝える連絡をすると「(内定報告をしてぜひ)姪御さんに手を合わせてあげてくださいね」と返事が来た。

ありがとう、なんて言えるはずがなかった。

私は、はるちゃんの死を消費した。
内定と引き換えに、その罪を背負った。

そして私は再び、性懲りもなく、はるちゃんをまた消費しようとした。

洋食屋で「やりたい取材はあるか」とデスクに聞かれたとき「保育事故について取材したい」と答えた。それは嘘ではないけれど本心ではない。

記者生活がつらくて心が空っぽになっていったのではなくて、最初からなんにも入っていなかった。

私の記者適性の有無だけでなく、私の心の空虚さも、デスクはきちんと見抜いていたんだと思う。

30歳になった今も、私の中にはいまだになにも無い。埋まらない。
フリーのライターになって丸4年経つ。新聞記者よりも長いキャリアになったのに、まだ書きたいテーマが見つからない。

冒頭の赤ちゃんのうつぶせ寝の事故のニュースを見たときも「ああ、まただ」以外の感想は持たなかった。
フリーになってから、保育事故についてやりたいと思ったことは1度もなかった。

はるちゃんのことを「消費しきった」という思いと、「これ以上消費したくない」という思いが併存している。
書くことによる罪悪感にこれ以上侵食されたくないという逃げであり、そして姪を消費することで生まれる責任からの逃げ。ただそれだけ。
本当に書きたいことではなかった。

「好きなこと」「やりたい企画」「興味関心があるテーマ」、そんなものは私の中には存在していない。少なくとも「新聞記者になりたい」と思ったその瞬間から現在に至るまで。

ただ、就活のため、仕事のため、誰かに気に入られるため、誰かの機嫌を取るための企みでしかない。
私はそういうつまらない人間だった。
本当に書きたいこと、取材したいことなんてなんにもないのに、何となくの憧れだけで新聞記者になってしまった。

私の新聞記者の歴史は、「過呼吸前」と「過呼吸後」に分かれる。
つまり、私はちゃんと“新聞記者たる日”が1日もない。
1日として新聞記者になっていないのにもかかわらず、私はなぜかこの後どんどんと心を病んでいく。

その謎()を7年後の自分が解き明かしていこうとしている。
実にくだらないと思う。

こういうヤツが「新聞記者生活つらかったから辞めた~☆」なんてブログを書いているのにひっかかりを感じる人が多いのもわかる。
「何にもわかっていないくせに語るな」って、そりゃ思う。

わかる。

めっちゃわかる。

ただ、幼稚で未熟な自分を再確認するための作業であり、
どうしたら中身のある人間になれるかの模索であるので、どうか笑って赦してください。

獅子まいこ