新聞記者、辞めました。

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新聞記者、辞めました。でもなんやかんや新聞やメディアが好き。社会のいろんなこと考えていたいゆとりの戯れ言。

デスクに戦力外通告された話<#9>

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勤務中にデスクからの電話で過呼吸になり、自分が担当している警察署に救急車を呼ぶという、前代未聞(自称)の失敗をやらかした。

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 夜討ち朝駆け(あんまりしてなかったけど)、毎朝毎晩の署まわり、副署長からのお説教、地取り、丸一日以上家に帰れない事案、遺族取材、深夜の呼び出し、オンもオフも関係なく鳴る社用ケータイ、アルコールを飲む予定は事前にデスクに報告、休日に管轄外に出るときも事前にデスクに報告(=プライベートの予定が筒抜け)、土日出番で誰にも「替わって」と言い出せず参列できなかった姪っ子の七回忌…。

 

これら警察担当独特の慣習に加えて、月1回の宿直で右も左もわからず本社デスクに叱責される恐怖、飲み会で身体接触してくる某男性デスクとそれを黙殺する会社への恐怖、災害取材時に豪雨の中で一人「これ流されたら誰にも発見されないぞ」と感じた恐怖…

 

たった2カ月で、心身が疲弊しきっていた。

運転中、「このまま右折せずに河川敷につっこんだら」「ブレーキじゃなくてアクセル踏んで遮断機突っ切ったら」と頭によぎることは日常だった。交通事故に遭った子どもの記事を書いていると「私が身代わりになってあげればよかった」という考えに心を支配され、帰り道に涙が止まらなくなったこともある。

 

その結果として、“デスクから叱責の電話”がトリガーになり過呼吸という体の異常が現れたのだと思う。

 

でも、記者職を希望して入社し、警察担当に配属になった以上、たった2カ月で音を上げた私は新聞記者失格。

やや大仰に大変だったことを書き連ねたけど、たぶん人によっては「大したことはない」と思うだろうし、記者として当たり前に果たすべき仕事であることは間違いない。なのに私は「当たり前にできる」「まあ頑張ればできる」ことが極端に少なかった。それは私の能力・キャパ・精神力に問題があったと、今でも当時でも思っている。

f:id:leoleolion:20201209222439p:plain過呼吸になり病院に運ばれたのは木曜日。金・土・日・月と計4日間の休みをもらった。

(手帳を見返すと、月曜はもともと特休:休日出番の振り替え的なやつ、だった)

 

火曜日、会社近くの心療内科へ行った。

会社としては“運転中に”過呼吸になったことを問題視していたようで、「今後も業務中に運転をしてもいいのか否か」の診断書をもらってくるように言われた。

 

診断書には「過換気症候群」と書かれた。

 

か・かんき・症候群…?

過呼吸のこと、そんな病名(?)で呼ぶんだ、と思った。

 

車の運転についても「会社がこう言っているので診断書に書いてください」と医者に言うと、云々かんぬん言って面倒くさがられた。医者は「『運転大丈夫です』と言って、あなたが万が一事故を起こしたときに責任取れない」ということを遠回しに遠回しに言った。会社と医者の責任のなすりつけあい的なことの狭間で、私も「別に運転自体は過呼吸に関係ないと思うけどな~」とも思った。

結果、診断書には「しばらく運転は様子を見る」といった文言で落ち着いた。

 

仕事上での過ごし方のアドバイスなどもデスクにも伝える必要があるかと思い、医者の言ったことのメモを取っていると「なんでメモなんか取るんだ!」と怒られた。よく意味がわからなかった。散々な初・心療内科受診だった。

 

その診断書をデスクに提出し、人事部長とも面談をした。

救急車で運ばれたのは6月23日。まだ試用期間中のことだったが、私が最も恐れていたクビは免れた。社会部警察担当の所属もそのままだった。

 

ただ、診断書通り「しばらく運転お休み」を告げられた。

「運転お休み=署まわりもお休み」を意味していたので、署まわり大嫌いマンの私は心の中で飛び上がって喜んだ。

しかし、同時にそれは私の「サツ担記者としての存在意義」も“お休み”になることを意味していた。

 

 

救急車で運ばれて以降、複数回デスクと県警近くの喫茶店で話をした。内容はほとんど日記に残せていないので、どの面談のときに何を言われたのかは正確に覚えていない。

日記に残せないほどのダメージを毎回食らい、記憶から消し去りたいほど、つらい時間だったんだと思う。

 

デスクから、今後の働き方の注意点を言われた。今の体調や、毎晩寝られているのかとか、いろいろ聞かれた。そんなところまでは良かった。

 

「なぜ過呼吸になったと思う?」との質問には、「企画記事の取材がうまく行かないこととか、いろいろなことが重なり、いっぱいいっぱいになってしまっていた」というようなことを答えた。

 

「今までの獅子は、そういう(精神的に弱い)タイプだったのか」という問いは否定して、「意外かもしれないが、昔はわりと自分に自信がある人間の側だった」と言った。

努力が報われる世界ではそれなりに努力してちゃんとその成果を掴んできた、向上心の強いタイプだと自負していた。といってもそれが当てはまるのは高校受験、大学受験ぐらいだが。就活もまあ、第一志望の会社ではないけど、一応夢だった新聞記者にはなれたし。

 

中学・高校は運動部の部活で顧問には死ぬほどしごかれて育ったこと、大学生のバイトでは店長にそれなりに怒られたこと、など「怒られ慣れていない」タイプでもないことも伝えた。

 

 

そしてデスクは「そもそもなぜ新聞記者になりたいと思ったのか」と聞いてきた。

 

―――???
―――久々のこの感じ……採用試験の面接か!?

 

就活生のころの記憶をまさぐり、大学で学んだことも挙げながら「社会的に弱い人、声を上げたくても上げられない人の声をすくい上げるような記者になりたいと思ったから」と答えた。

 

そして、こう続けた。

 

「でも、先日の遺族取材はうまくいきませんでした。遺族の方の怒りやつらそうな言葉に触れると、それ以上どうしても踏み込めない自分がいました。だから、もしかしたら、『弱い人の声をすくい上げたい』というのは、私の独りよがりなのかもしれない、私にはできないことなのかもしれないと、自信がなくなっています。」

 

さらに、最近強く考えていたことも、ついでに言った。

それは「若い人たちにも興味を持ってもらえるような記事を書きたいと思うようになった」ということ。

 

きっかけは、4月の社員総会で会社のお偉い人たちが言っていた、発行部数低下の要因についての発言。

・専務「難しい言葉が多いから、簡単な言葉を使うようにするといい」「月1万円もスマホ代に使うのに、月たった3000円も出さないなんて理解できない」

・編集局長「若い人に読んでもらうために、工夫すべきはやはり地方紙の強みである地方面。中でもおくやみ欄」

 私の眼には、彼らは若者が新聞を読まない理由を本気でわかろうとはしていないように映った。「そこ?」「は?」「あと20年もしたらメイン購読層ごっそりいなくなるのに、そのころには自分も会社にいないだろうからってこんなんでいいの?」と強く疑問に感じるようになっていた。

デスクには「新人や若手の声を誌面に反映させるような機会があったり、他社みたいに担当関係なく好きなテーマで記事を機会があったらいいのにと思っている」と伝えた。

 

デスクの返事は、こうだった。

 

「心から、本気で社会的弱者の声を拾いたいと思っていた人が、今度は『若い人に新聞を読んでもらえるように』なんて思うわけがない」

「お前の新聞記者としての気持ちは中途半端なものとしか思えない」

 

――返す言葉がなかった。面接は面接でも、圧迫面接だった。

 

 

デスクは静かに言葉を発する人だった。

そして、ときおり、なんの熱も感情も感じ取れない言葉を口にすることもある。

 

面談を終え、喫茶店での会計を済ませて県警に帰る道すがら。猫背気味のデスクは私の半歩先を歩きながら、目も合わせずこう言った。

 

「獅子は本当にこの仕事に向いているのか、本当に続けたほうがいいのかも含めて、お母さんともしっかり話し合ってみるといいと思うよ」

 

さらっと、捨て台詞みたいに吐いた。私の歩みは止まり、半歩先のデスクとの距離は少しずつ開いていった。

 

 

戦力外通告そう私は受け取った。

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デスクからの言葉に絶望した私は、完全に新聞記者としての自信を無くし、この1年数カ月後に社を去ることになる。

 

デスクの「お前に新聞記者の適性はない」という忠告が当たったことになるのか、はたまたこの発言によって「新聞記者を辞める」という私の決意が固まったのか。

どちらが先なのか。それはもう「卵が先か鶏が先か」と同じでよくわからない。

 

「そんなに熱意があったなら、態度と実績で見返してやればいいのに」と思う人もいるかもしれない。そうすべきだったと思う。もっと昔の私だったらそうしていた気もする。もしまだ私が新聞社に残っていたら、今ごろ笑い話としてデスクと酒でも酌み交わしているかもしれない。でも、できなかった。

 

そもそも、当時喫茶店で私がした話も、どこまでが本音でどこからが建前なのか、自分でもよくわからない。

 

 

今回の「過換気症候群」に加えて、さらに私はこの後、心療内科で2つの診断名(?)が下される。あえて病名は言わないけど、1つはこれからちょうど1年後、警察班から行政班に異動してから。あと1つは転職し、出版社で働いてからのこと。

 

出版社での激務で再び心も体も壊れ、自宅で過呼吸に襲われながらベッドで泣きじゃくっていたとき、デスクの顔が浮かんだ。

このまま人として再起不能になるか、または生きることを辞めて、そのことを彼が耳にしたら。悲しんでくれるのだろうか、反省するのだろうか、私を憐れむのだろうか、責任を感じるのだろうか。

 

―――おそらくどれも当てはまらない。きっと彼は私のことを覚えていないし、覚えていたとしても私の未来に関心なんてない。

だから、デスクのことを恨むのは辞めた。後にも先にも、「私がこうなったのはこの人のせい」「謝ってほしい」と思ったのはその一瞬だけ。たぶん。

 

今は、心から、デスクには感謝している。

戦力外通告しておいてなお、こんなゆとり・ポンコツ・ヘタレな新入社員を1年間サツ担にいさせてくれたから。

彼はめちゃくちゃ優秀な記者だったと、社内のいろんな人から聞いた。この年は、彼にとってもデスク1年目だった。マネジメントしにくい部下を持つことになって、本当に気の毒だと思う。…当時はそんなことにまで考えが及ばなかったけど。

 

使えない新人で本当にすみませんでした。

ただ、在職中に命を絶たなかったことだけでも、いつか、褒めてくれるとうれしいです。

 

 

 

<続く>

 

 

 

▼▽お詫びタイム▽▼

 

鬱々しい内容で、読んでいて気分を害された方がいらっしゃったらすみません。

 

私がこのnoteで新聞記者時代の日記を書こうと思った理由は、2つありました。

1つは、私と同じようにつらくて大変な体験をしている・した方の心が軽くなればという思い。2つ目は、新聞記者などのマスコミを目指す学生さんに、リアルな状況を少しでも感じてもらって、私のように「理想と現実の間」で悩み苦しむことが少しでもなくなればという思いです。

 

最近、もう1つあることに気がついたんです。

 

あれだけ憧れてやっと叶えたはずの新聞記者という仕事と、自分の適性や精神力との深い深い断絶。数年経ち、ゆっくりと思い出しながら言語化することで、“心の傷”から“人生の通過点”へと昇華させているんだな~と。

 

う~ん。うまく表現できないんですけど…。

 

たぶんまだまだ書けることはあるので、もう少しお付き合いいただけると嬉しいです。

そしてできれば、優しいまなざしで読んでいただけると嬉しいです。

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

獅子まいこでした。