新聞記者、辞めました。

新聞記者、辞めました。

新聞記者、辞めました。でもなんやかんや新聞やメディアが好き。社会のいろんなこと考えていたいゆとりの戯れ言。

初めて睡眠導入剤が処方された話<#11>

睡眠薬を飲んでいることは、わたしは全然恥ずかしいことではないと思う。

だけど、だけどさ。

 

 

新聞記者1年目の6月末、過呼吸になり会社を早退した。

人事部から診断書を提出するように求められたため、土日を含めた4連休明けの朝、初めて心療内科を訪れた。

傷病名は「過換気症候群」。

 

慣れない環境で溜まったストレスや疲労があったにせよ、たった1回。たった1回、たまたま勤務中に起きてしまった過呼吸によって、始まったばかりの社会人人生が傾いていく。

そしてそのまま滑り落ちていった女の話。

 

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初回の心療内科で薬も処方された。

…と言っても「ツムラ半夏厚朴湯」という漢方薬。1日3回×12日分。

ふりかけみたいな小袋に分包されていて、ミシン目でつながっているのを折りたたんで輪ゴムでまとめて渡された。分厚い銀色の塊。

もともと粉薬を飲むのが苦手なうえ、漢方薬独特の香りも相まってほとんど飲むことはなかった。

 

 

心療内科での受診を終えたのち、県警まで自転車で向かった。

その後出勤してきたデスクに呼ばれ、近くの喫茶店で面談をした。

心療内科でどんなことを言われたか、生活するうえで気をつけることは何かなどを聞かれた。

 

 

処方された「薬」の話になり、漢方薬の写真や用法用量が記載されているA4サイズの説明書をカバンから出した。

 

隣の窓際のテーブル席には、コーヒーを飲みながらスポーツ紙を読んでいる50~60歳ぐらいの男性が座っていた。

そのおじさんに話の内容を聞かれたり、料理を運んでいるマスターに説明書を見られたりするのがなんとなく恥ずかしくて、4つ折りの説明書を畳んだまま手渡した。

 

 

デパス?」

 

私の反応を待たずデスクは続けた。

 

眠剤出た?」

 

 

「…あ、いえ。漢方薬でした。」

 

そう聞いたデスクは折りたたんだ紙を一瞥すると、開くことなくそのまま私に返した。

 

 

 

 

この短いやり取りの間に、私は今私がいる世界の仄暗い闇を、ほんの一瞬だけ垣間見たような気がした。

 

聞き慣れない薬の名前と、「眠剤」という単語。

 

みんざい。

 

眠剤、または睡眠導入剤のことを略して「眠剤」と言うことなんて、“大人”の世界では常識なんだろう。

ただ、ほんの3、4ヶ月前までは親の庇護の下で生きていた22歳の脳みそは、ある危機を察していた。

大げさに表現すれば、覚醒剤のことを「シャブ」「スピード」と当たり前に言ってのける人と邂逅してしまったような、これまで私が生きてきた世界とは違う世界に踏み入れてしまったような感覚。

 

さらっと何の抵抗なく上司が口から発したその単語に、私は直感的に2つのことを感じ取った。

デスクも「眠剤」を飲んだことがあるのかもしれない、ということ。

そしてこの会社で「眠剤」を服用する人はさほど珍しくないのかもしれない、ということ。

 

眠剤」という言葉から連想されていく様々な底知れぬ不安は、予感から実体験へとすぐ変わった。

 

 

この日から、私は定時退社・残業なし・突発事案対応なし、のゆるゆる記者生活を送り始める。

 

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体力的にも精神的にも、負担は軽くなったはずだった。

それでも、なぜか元の自分が帰って来ることは永遠になかった。

当時の手帳には、日々の取材で感じた前向きな感想と反省文に混ざって、週1回のペースで「過呼吸」という単語が登場する。

 

診療科内科の初受診からひと月半後の、8月17日。

3回目の受診で、とうとう睡眠導入剤抗不安薬が処方された。

ゾルピデム」と「エチゾラム」。エチゾラムは、かの「デパス」のジェネリック医薬品

(…ということは今調べて知った。)

 

 

晴れて、仲間入りした。

 

 

決して入社5カ月目で眠剤デビューしたことを自慢(自虐)したいわけではない。

オチはこの先にあるから、もう少しだけ付き合ってほしい。

 

少しだけ時が流れて、翌年2月末。社会人1年目も終わりに近づき、2年目の辞令にソワソワし始めていた時期のこと。

 

3期上の女性の先輩・Cさんに晩ごはんに誘われた。

場所は本社近くのおしゃれなカフェ。

ファイヤーキング翡翠色のカップに並々と注がれたラテが、カラフルなゼリービーンズが4,5粒転がった同色の小皿ととともに運ばれてきた。

 

失敗談から上司への愚痴、恋バナまで何でも笑って打ち明けてくれる彼女は信頼できる先輩の1人だった。

「この街には敵しかいない」「口は災いのもと」が口癖の私も、ついつい彼女の前では緊張が緩んでしまう。転職を考えていることも正直に打ち明けた。

 

そんな私に、彼女はある話をしてくれた。

それは「Xさんも睡眠薬を飲んでいた時期があった」ということ。

 

Xさんは、仕事で悩んで夜眠れなくなりそうなタイプとは到底思えない、完全無欠のスーパー記者のイメージしかない人。ついでに、私生活のほうも順調オブ順調な人。

そんなXさんも、入社1年目に仕事で大きなミスをしてしまい、しばらく睡眠薬に頼っていた時期があったというのだ。

 

彼女は「あれほど優秀な人でも闇の時期はある、だから獅子も大丈夫」とアドバイスしてくれた。

 

この会社で働く人は誰も弱みを見せないし、心が折れた経験があった素振りすら見せない。

新人全員がちゃんと乗り越えてきた“1年目サツ担”の負荷に耐えられない自分の方が異常だと思っていた。

 

だからこそ、Xさんの話を聞いて、ほんの少しだけ親近感と勇気が湧いたのも事実だった。

 

「完璧に見える人でもみんなそれぞれ悩みを抱えていて、苦しい時期を乗り越えて強くなっていくんだな。」

 

そう思ったあなたは、おそらく優秀な新聞記者さんでしょう。

マスコミ志望の学生さんなら、記者に向いていると思います。(私に言われたところで嬉しくないと思いますが。)

 

 

「いくら後輩を励ますためとはいえ、本人の許可もなく睡眠薬飲んでたことを言いふらすのってあり?」

 

そう思ったあなた。友達になれそうです。

 

 

 

 

あの夜、家に帰った私はひとり逡巡する。

 

――Xさんは、1年目に睡眠薬を飲むほど悩み苦しんでいた時期があったことを、後輩の私(獅子)が知っていることを、知らない。

 

本人が公言しているならともかく、デリケートなことだから「心を許した同僚にしか知られたくないこと」と思っているかもしれない。

 

XさんはCさんに全幅の信頼を寄せていて、Cさんが誰か私のような後輩に言たっとて、「過去のことだから」と気にしないタイプかもしれない。

 

もし万が一、そうだったとしても。

 

 

人の秘密を握ること。

 

それがこの会社で生き抜く術なんだと、私は入社早々身を以て知った。

社内の無意味な人狼ゲームで傷つきたくない私は、あの日以来、仕事の失敗、悩み、上司に言われたこと、プライベートのこと、すべてにおいてできる限り口をつぐむ努力をしてきた。

 

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ただ、仕事の失敗は、同僚や上司に迷惑を掛けてしまう以上隠すことは不可能。

信頼できる人にだけこっそり打ち明けたはずだった相談事でさえ、言った瞬間に主導権は向こう側に移る。守秘義務なんて口約束、あってないようなもの。

 

自分の失敗やコンプレックスは、知らず知らずのうちに、ネタにされ、噂され、誰かの自尊心を満たすための肴にされる。

 

そして私の“過呼吸”も、まだ顔を合わせてすらいない、入社直後の後輩たちへすでに拡散されていることを知るのは、もう少し後のこと。

しかも、サツ担で迷惑を掛けた同期・先輩たちでもない、親身に相談に乗ってくれていたCさんですらない、私が過呼吸になったことすら知らない(教えていない)と思っていた、全然別の人の口からだった。

 

(本当にへこんだ。)

 

 

会社辞めた今なら、いくらでもネタにしてもらって全然良いんです。

 

過呼吸のことも、睡眠薬飲んでたことも、何もなし得なかったポンコツなサツ担1年目がいたことも。

 

だって、会うこともないし、関わりがないからね。

そして、私の中では「過去の話」になっているから。

 

でも、当時はまだ失敗やコンプレックスを自分自身で何にも昇華できていないし、ズルズルと引きずったまま闇の渦中であがいて呼吸困難になっている。そんな状態なのに、本人の承諾もなく第三者に第三者に言いふらすというのがどうしても許せなかったんです。

 

 

そんなどうでもいいや、勝手にしやがれ、と達観するのにも若すぎました。

 

向いていないな、と感じることばかりが募っていった結果、私は逃げるように会社を辞めました。

 

「私の考え方のほうが正しいでしょ?」と問いたいわけではありません。なぜなら、Cさんも、Xさんも、過呼吸エピソードを新卒に広めた人も、まだ働いているから。

 

順応することを拒んだ、私の負け。

 

 

<つづく>

 

記者失格なことを見抜かれていた話<#10>

 

2023年2月8日の朝。
朝刊の社会面を流し見していた目が止まった。

保育所で乳児死亡 遺族「うつぶせ、窒息」
警視庁捜査 東京・世田谷

mainichi.jp

私は「ああ、まただ」と思った。

14年前のいくつかの映像が思い出される。
高校から帰宅すると、母はおらず、代わりにテーブルの上にスーパーの弁当が置かれていた。白い書き置きのメモには、悪筆な母のさらに震えるような字で「はるちゃんが亡くなったので 病院に行ってきます」とだけ書かれていた。

姪のはるちゃんは、保育所でうつぶせ寝で亡くなっていた。
生後4カ月だった。

家に帰ってきたはるちゃんを抱っこした。冷たくて軽かった。
解剖で臓器が取り除かれていて、代わりに綿などの詰め物がされているんだと兄は教えてくれた。

葬儀で、初めて泣く父を見た。

火葬炉の点火スイッチを押す、兄と義姉の背中。

2016年6月末。
新聞記者1年目の私は、勤務中にデスクからの電話で過呼吸になり自分が担当している警察署に救急車を呼ぶという、前代未聞(自称)の失敗をやらかした。
試用期間の身であるにもかかわらず、早々に警察担当への適正のなさが露呈してしまった。

……う~ん。違う。

警察担当どころか、記者適性がなかった。
そして上司であるデスクは、そのことを早々に見抜いていた。

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出勤簿上の時間外労働が150時間を超える生活から一変し、朝9時出社・17時退社になった。
残業はもちろん一切無し。土日祝出勤、宿直もなし。
(一応所属は警察班だけれども)突発的事案の対応もなし。

運転中に過呼吸になってしまったので車はNGだと判断されたため、取材は電車やバス、自転車を使う。
取材するのは街ダネや各班に持ち回りで巡ってくる特集。
取材が無い日は、記者クラブでの記事のスクラップをするように命じられた。
待遇は完全に“お荷物社員”“社内ニート”たる、それ。

正真正銘「ゆとり記者」な生活がスタートして以来、デスクとは何度かランチという名の面談をした。

この日は、県警近くの洋食屋だった。カウンター席に横並びに座る。
警察担当にもかかわらず突発事案の対応ができなくなった私に、何か企画でもやらせようかと思ったのか、興味のあることややってみたい取材はないかと聞いてきた。

その日の詳細なやり取りは思い出せないのだが、手帳(兼日記)には断片的ながらメモを残していた。

SIDSの会―東京

正しくは、「SIDSかぞくの会」。

SIDSとは元気だった赤ちゃんが睡眠中に突然亡くなってしまう「乳幼児突然死症候群」という病気のこと。姪の死因について、母からは「赤ちゃんに起きてしまう突然死だったのではないか」と聞いた。
SIDSは窒息事故とは別のものだが、あお向けよりもうつぶせに寝かせたときの方が SIDS の発症率が高い。
あおむけに寝かせることは「睡眠中の窒息事故を防ぐ上でも有効」と厚労省のサイトにも記載がある。

SIDSかぞくの会は、SIDSや事故、流産、死産などで子どもを亡くした家族への精神的援助や、SIDSに関する知識の普及に取り組んでいるNPO法人だ。

デスクに「やってみたい取材は」と聞かれた当時の私は、はるちゃんのことを思い浮かべながら、SIDSや保育事故について答えた(のだと思う。記憶にはない)。

それに対するデスクの答えが、「SIDSの会―東京」のメモの隣に書き記されている。

いつかやるーと思うのはいいけど
→私にはまだできないことを十分に自覚しないとダメです。
私の取材・執筆スキルじゃ無理。

そしてその上部には、ぐるぐると何重にも丸で囲った中に

口は災いのもと。

と書き殴ってあった。

自分よりも幼い命が先に亡くなるという経験を経て、私にならきっと意味のある記事が書けると思う。そうデスクに伝えたことを私は「口は災いのもと」と結論づけていた。

普通の精神状態だったなら、デスクに「まだお前にはできない」と言われたら「今は基本的な取材力や執筆力を磨きなさい」という意味なんだと受け取れたはず。

ただ、もうすでにデスクから記者の戦力外通告も受けている。
「まだお前にはできない」、つまり「お前にできる日は来ない、やる資格はない」と一蹴されたと感じた。

きっと、だからこの日の出来事を「口は災いのもと」と表現したんだと思う。

なんのために記者になったんだっけ?
この頃から、自分の心を満たしていたはずのいろんな価値観や芯や、好きなもの、興味関心、趣味ですら、ひとつひとつ、いつの間にか消えて無くなっていくような感覚を何度も味わうようになった。

その5カ月後の2016年12月、私は市内の大学で開かれた保育事故に関する講演の取材を担当する。
講演者は、5才の息子さんを保育事故で亡くした夫婦だった。

ただ、この取材は「獅子、こういう講演あるけど行ってみるか」とデスクから声をかけられたわけでも、私から「こんな講演があるので行っていいですか」と手を上げた訳でも無い。
前述の通り、私は警察班でありながら本来なら警察班以外が担当する街ネタも割り振られていた。
たまたま、私にその担当が回ってきただけなのである。

講演後、夫妻のもとに話を聞きに行った。
「実は私も…」と姪のことを伝えると、兄夫婦への心配の言葉をかけてくれた。
追加取材は10分少々だっただろうか。
講演内容の補足と、夫妻の生年月日を聞いて講義室を後にした。

記事を書いてデスクに送ったあと、何かやり取りをした記憶はない。

うちの県でも保育事故は起きていたこと、保育や教育現場での子どもの死を防ぐための取り組みをしている人がいることを知った。
「もっと詳しく取材がしたい」という気持ちが芽生えなかったわけでは無かった。
それよりもある種の満足感のほうが勝った。役目を果たせた、と思った。この会社でやれることはやったんだ、と。

データベースで夫妻の名前を検索すると、同様の講演やインタビューの記事が複数出てきた。

「なぜ、今、私が、保育事故の記事を書く意義があるか」を説明するための材料を探していたはずだった。
でも、脳内にいる架空のデスクによる「本当にできるのか」という反証に耐えうる覚悟もやる気もないことに気がつく。
いつしか、「やっぱり私はできないな」「そもそもやる必要はないんだな」と自己完結させるための理由を探していた。
そして、私が書く理由はない。もう十分なんだ。と結論づけた。

就活生のころ、はるちゃんのことはマスコミ採用試験の作文で何度も何度も書きまくった。

ゼミ指導の先生が元新聞記者で、記者を目指す学生を集めて就活対策グループをつくっていた。
そこで宿題で出された作文のテーマが「悼む」。
近所のマックで泣きながら800字の文章にしたためた。
後日、学生たちで互いの作文を論評し合う場で、私の「悼む」は良い評価を得た。

誰かが、マスコミの作文は「ある程度得意な自分の“型”を持っておき、テーマに合わせてうまく使い回すといい」と言っていた。

シメた、と思った。私の“型”はこれだと思った。

「死」「生きる」「弔い」といったテーマの類の作文には、とことんはるちゃんを登場させた。

入社した地元新聞社の作文でも書いた。
受験生の3割ぐらいは東日本大震災について書くんだろうなと勝手に予測を立て、姪の死を書いた私の作文は目立つだろうと思った。

「受かっただろう」。そう思った。

大学4年生の10月、内定式に出席するため大学のある横浜から実家へ帰省した。

「はるちゃんをネタにした」

「はるちゃんで内定を取った」

仏壇のはるちゃんの写真と目を合わせられない。
じわじわと、もやが広がる。

内定式を終えても、すぐ横浜に戻る気持ちになれなかった。
先生にゼミの欠席を伝える連絡をすると「(内定報告をしてぜひ)姪御さんに手を合わせてあげてくださいね」と返事が来た。

ありがとう、なんて言えるはずがなかった。

私は、はるちゃんの死を消費した。
内定と引き換えに、その罪を背負った。

そして私は再び、性懲りもなく、はるちゃんをまた消費しようとした。

洋食屋で「やりたい取材はあるか」とデスクに聞かれたとき「保育事故について取材したい」と答えた。それは嘘ではないけれど本心ではない。

記者生活がつらくて心が空っぽになっていったのではなくて、最初からなんにも入っていなかった。

私の記者適性の有無だけでなく、私の心の空虚さも、デスクはきちんと見抜いていたんだと思う。

30歳になった今も、私の中にはいまだになにも無い。埋まらない。
フリーのライターになって丸4年経つ。新聞記者よりも長いキャリアになったのに、まだ書きたいテーマが見つからない。

冒頭の赤ちゃんのうつぶせ寝の事故のニュースを見たときも「ああ、まただ」以外の感想は持たなかった。
フリーになってから、保育事故についてやりたいと思ったことは1度もなかった。

はるちゃんのことを「消費しきった」という思いと、「これ以上消費したくない」という思いが併存している。
書くことによる罪悪感にこれ以上侵食されたくないという逃げであり、そして姪を消費することで生まれる責任からの逃げ。ただそれだけ。
本当に書きたいことではなかった。

「好きなこと」「やりたい企画」「興味関心があるテーマ」、そんなものは私の中には存在していない。少なくとも「新聞記者になりたい」と思ったその瞬間から現在に至るまで。

ただ、就活のため、仕事のため、誰かに気に入られるため、誰かの機嫌を取るための企みでしかない。
私はそういうつまらない人間だった。
本当に書きたいこと、取材したいことなんてなんにもないのに、何となくの憧れだけで新聞記者になってしまった。

私の新聞記者の歴史は、「過呼吸前」と「過呼吸後」に分かれる。
つまり、私はちゃんと“新聞記者たる日”が1日もない。
1日として新聞記者になっていないのにもかかわらず、私はなぜかこの後どんどんと心を病んでいく。

その謎()を7年後の自分が解き明かしていこうとしている。
実にくだらないと思う。

こういうヤツが「新聞記者生活つらかったから辞めた~☆」なんてブログを書いているのにひっかかりを感じる人が多いのもわかる。
「何にもわかっていないくせに語るな」って、そりゃ思う。

わかる。

めっちゃわかる。

ただ、幼稚で未熟な自分を再確認するための作業であり、
どうしたら中身のある人間になれるかの模索であるので、どうか笑って赦してください。

獅子まいこ

 

あ。私、新聞社辞めたくなかったんだ。

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私も退職届を書いた。

そして、出した。

2017年12月27日、社会人2年目の冬のこと。

そして、私は会社を辞めた。 

note.com

出だしの4行で心をつかまれ、あっという間に彼の世界に引き込まれた。

筆者である熊田さんと私の記者としての経験は似ていた。でもまったく違っていた。

熊田さんのnoteを読んで「涙をこらえきれなかった」とつぶやいているツイートも複数タイムラインに流れてきた。

私は「すごく面白い」とは思ったけど、「感動」したわけではなかった。明日への活力がわいてくるわけでもなかった。

っま、そりゃそうだ。だって私もう新聞記者じゃないしな。

でもなんだろう、この気持ち。

 

この感情を整理するのには少々時間がかかった。

いろんな人の感想ツイートを読み漁り、昔の日記を引っ張り出して読んだりしているうちに、今、やっと涙を流せている。

 

あぁ、やっぱり悔しかったんだ。新聞記者辞めるの。

 

「悔しかった」っていう気持ちに気付いてしまった。

自分のプライドや自己肯定感をこれ以上壊さないために、数年間ずっとフタをしてきた感情だったのかもしれない。

  

 

熊田さんのnoteには、熊田さんを救うMさんが登場する。

 マスコミ業界で働くうえで、パワハラによる挫折など、この手の壁を乗り越えるにはだいたい素敵で尊敬できる人との出会いがある。

 一方で、私が新聞社を退職するまでの出来事をまとめたnoteには、そういった人は出てこないし、今後もその予定は無い。

 そう。結局、人。

壁を乗り越えられるか否かは、縁と運。

 

別に、その縁と運をつかめた人のことを妬ましくは思わないし、今のこの人生は人生で楽しんでいるので運命を嘆くつもりもない。

 そもそも、当時のデスクの言動がパワハラだったのかって正直よくわからない(戦力外通告は受けたし、心も病んだけど)。たぶん、それ以上に大変な経験をされている方も多い気がする。

単純に私の適性と精神力が無さ過ぎたのが原因だったとマジで思っている。だから、Mさんのような人との出会いがあったからといって、新聞記者を続けられていたという自信は1ミリもない。

 「退職届を書いた。そして、会社を辞めた。」

だから私は、人生の分岐点でこの道を選んだのは必然だったと思っている。

遅かれ早かれ、いつか新聞社を辞める運命にあっただけ。

 だから、熊田さんのnoteを「面白い」とは思いはすれど、「感動」はしなかったんだと思う。

運と縁をつかめた、自分とは違う世界の人の人生だから。

 でも、なぜか、今、私は泣いている。

熊田さんのnoteをきっかけにふと思い立ち、数年ぶりに私用のGmailをさかのぼってある人からのメールを読んだ瞬間に、思い出したように涙がこぼれてきてしまった。

 

 

新聞社の退職日、社用メールから最後の挨拶メールを同部署内や関りがあった人たち数十人に送った。ネットで「退職日 最後のメール 挨拶」とかでググって出てきたテンプレをほぼコピペしたもの。テンプレにあった「今後の連絡先は、こちらのメールアドレスに…」的な一文は、削っても支障ないかなと迷ったけど一応私用のGmailを記載しておいた。

 2年弱しかいないし人間関係も希薄だったのに、5人の先輩・上司から返信が届いた。

 その中に、記者1年目の警察班時代にキャップだったAさんがいた。

いつも眉間にしわ寄せてて近寄りがたい雰囲気だし、いつ寝てるのかわかんないし、常に忙しそうで話しかけにくい。それに、次年度からAさんは運動部に異動してしまったので、それ以来顔を合わす機会がほとんどなかった。

 まさか、まさか、まさか返事をもらえるとは思ってなかった人だったので驚いた。

おそるおそるメールを開くと、丁寧な文章でこうつづられていた。 

一緒に仕事をした身として、この仕事の楽しさとかやりがいとか、もっと伝えられることがあったのではないかと自問しています。何か大層なことができる立場や能力はないけれど、相談に乗ったり雑談をしたりすることはできたのではないか、忸怩たる思いと申し訳なさを感じています。

次に進む道でも獅子らしく、自信を持って楽しい日々を過ごされること、心から願っています。

 Aさんは、1年目の警察班配属直後に、ペーパードライバー状態で山道を下ってブレーキ壊したときに迎えに来てくれた人。そしてその2カ月後、警察署で過呼吸になったとき「気に病む必要なし」って連絡をくれた人。

センター試験の日に休日出番が一緒になったときは、一緒に問題も解いた。笑

現代社会かなんかが95点ぐらい取れたことを報告すると「すごいなあ、さすがやな」って微笑んでくれた。

 

私は、SOSを誰にも出せなかった。

そして差し出していてくれたかもしれない手に気がつけなかった。

もしかしたら、「退職届を書いた。でも、会社は辞めなかった。」っていう選択肢があったのかもしれない。

熊田さんになれたのかもしれない。

 Aさんのメールの文面を開いた瞬間、涙が止まらなくなってしまった。

 私にも、運と縁はあった。

 

 

さらに、当時つけていた日記を引っ張り出して読み返すと、退職日当日の記憶を鮮明に思い出ことができた。

 

私は、退職届を出したあの日の時点で、すでに東京の出版社に内定をもらっていた(もちろん会社には言っていない)。

「東京でハッピーライフを楽しむぞ♡」「失われた時間を取り戻すぞ♡」って心からそう思っていた。

 

最後の出勤日、記者クラブを出たあと本社に人事部に社員証と健康保険証を返却しに行った。

 前日のシミュレーションだと、会社の敷地から出た瞬間、「さよなら!○○!(←地名)」って心の中で勝利宣言をして、スキップしながらニッコニコで帰宅するつもりだった。

もはや、清々しくて空飛べちゃうんじゃない?って。

 

当日も、直前までそのつもりだった。

でも、すべての手続きを終えてガラス張りのきれいな社屋を背に歩き出した瞬間、溢れてきたのは勝利宣言じゃなくて涙だった。

 

悔しいなーって。

 

あの日、会社の目の前の歩道で立ち止まり、そっと見上げた空の色は今でも鮮明に覚えている。

 負けた。負けた。負けた。負けた。

会社に負けた。自分に負けた。私は負けたんだ。

 ああ。やっぱり私は、新聞記者になりたかったんだ。学生の頃に憧れたような記者に。

でもなれなかった。

その苦くて重い事実を一歩一歩踏みしめなくてはいけなかった。

そうやって悔し涙を流していること自体も悔しかった。

 

その日の夜に書いた日記には、こう書いていた。

本当は、成功したかった。心を開きたかったんだろーなーと…思う。

自分らしくいられたら。

もっと、助けを求めることができたら。素直になれたら。

あんなに嫌いで、心を閉ざした、○○(←地名)

自分が自分じゃなくなっていく感覚。

心が壊された、この街。

”優しさとは、ゆるすということ。”(←Anly+スキマスイッチ=『この闇を照らす光のむこうに』の歌詞の一節)

 いつか、下を向かず、前向いて、堂々と、

この街を歩ける日が来ますように。

 

 

ここまで書いておいて結局、根本の「パワハラが常態化しているマスコミ業界の問題」には触れませんでした。

大問題なことはわかってるんですけど、私が指摘する資格もないし、どうしたらいいのかわからない。ほぼほぼ身バレしているので、そんなつもりは毛頭無くても「古巣・元上司を批判してる」って思われるのも怖いんですよね。小心者ですみません。

諦めもあります。元同期たちの話を聞いていると「我慢して乗り越えるのも、一人前記者になるための試練だったんだな」って思ったり。

 だから今できることとして、私が誰かの運と縁になれたらいいなって思ってます。

 

熊田さんのnoteは終盤、こうつづられています。

そして願わくは、全国の「内ポケットに辞表をしのばせている記者」たちに向けて、「ちょっと待て。1回、やってみてからでも遅くない」と呼びかけられたらいいなと。

 熊田さんが今現在取り組んでいらっしゃることと、辞めた私ができることには天と地、雲と泥、月とすっぽん以上の差があるんですけど。私がnoteなどを書くことで、それを目にした同世代や新人記者さんの心が軽くなったらいいなと思っています。私でよければ、相談乗ります。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

【自己紹介】新聞記者、辞めました。

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2020.07.28 追記

獅子まいこと申します。新聞記者やってました。
ゆとり・ポンコツ・ヘタレの3拍子揃った記者でした。

自己紹介します。

 

プロフィール

名前:獅子まいこ(しし・まいこ)
現在地:東京
故郷:電車は1時間に1本の田舎

名前はペンネームです。由来は次までにいいの考えておきますっ!

好きなものは、犬(飼ってる)、アヒル(飼ってた)、チョコ。
いつか、noteでいただいたサポートでいいチョコ買うのが夢です。

 

経歴

大学卒業後、地元の新聞社に入社。夢だった新聞記者になる。
東京の出版社に転職。月刊誌をつくる編集者になる。
フリーランスとして独立。←now!

大学ではジャーナリズムについて勉強して、本気で己のペンの力で社会をよくしようと思ってました。本気の本気で…!!
ーーまあ叶わなかったんですが。涙

 入社して2週間で「あ、この新聞社、ダメやな」と思い、
入社して4週間で「あ、自分、記者向いてへんわ」と思い、
担当していた警察署の記者クラブにて、社用PCで「リクナビネクスト」に登録しました。
それでもなお、やりがいや記者の使命を感じたり感じなかったりしながら、入社2年目の冬、早々に会社を去りました。

雑誌編集は、死ぬほど大変だったけどめちゃくちゃ楽しかった。こっちも短命だったけど、編集のスキルを身に着けられたしとても感謝しています。

あと、この出版社で人生最大の夢を叶えることも出来ました。人生最大の胸の高まりだった。もはや生きる意味を見失ってしまったレベルで、大きな大きな出来事でした。


フリーランスの仕事は、本名でやっています。
主に雑誌の連載記事などの、取材をしたり執筆したり編集したりしています。

 

獅子まいことして

好きな・得意なジャンル
・若者×メディア
・マスコミの在り方、ジャーナリズム
・記者の働き方問題

・マスコミ就活体験談

・時事全般

……あ、ちょっと意識高そうって思いました?

高くない!高くない!全然高くないんです、わたし。
基本的に意識は低めでやらせてもらってます。
新聞記者を目指して頑張っていた学生時代は、そんな時期もありましたが。
性に合っていないこともわかり、大人になるとなかなか息苦しくてかなわんのでやめました。

ありのまま、ゆる~、「ゆとり・ポンコツ・ヘタレ」を前面に押し出してまいりますのでよろしくお願いいたします。

 

noteでは今、3つのマガジンを動かしています。

▼私が新聞記者を辞めるまで。

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▼獅子まいこの今週の1冊
(先に言います。週1とか無理。笑。あくまで努力目標です。)

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▼映画で学んだジャーナリズム
(ジャーナリズムの専門家ではないのですが、好き勝手言うことをお許しいただけたら嬉しいです。)

note.com

 

これからの目標

意識低めに、ゆるっと目標を立ててみました。

・いろんなことについて考えて、文章で発信すること
・いろんな媒体で、獅子まいことして記事を書くこと

具体性なんてくそくらえだ。

以前、はてなブログで公開していた記事にこんなコメントをもらいました。

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記者の仕事って、つくづく大変です。
私の拙文で心が軽くなってもらえたなんて……嬉しかったです。
コメント書いてくださった女記者さん、ありがとうございました。

 記者時代はつらいことばっかりだったけど、新聞は好きだし、そこで活躍している記者さんたちは本当に尊敬しています。

新人記者時代の私のように悩み苦しみ耐えている人たちや、
「記者 辞めたい」「新聞記者 つらい」「新聞記者 ブラック」「記者 転職」「新聞記者 向いていない」って検索した人たちの目に私の文章が目に留まって、少しでも救いになってくれれば本望です。

マスコミを目指している学生さんたちの目に留まったとしたら、ポンコツ記者の過去を読んでも日和らず、目標を変えないのであれば、ものすごいエース記者になれると思うので頑張ってほしいです。

 

ちょっと過激なこと言います。
もう1つ、果てしない目標があります。

・この世の中から、クソ記事を撲滅すること。

ネットに蔓延る、中身のない、転載とコピペを繰り返しただけの記事を、我が家では”クソ記事”と呼んでいます。

SEO対策だけは抜かりなくやっていて、アクセス数を稼げるだけ稼ぐ。
それでいて記事を読んだ人をがっかりさせる。
有益な情報を埋もれさせて、たどり着かせにくくする。もう最悪。許せない!

ご自身でそういうブログを運営してそういう記事を量産している人もいれば、クラウドソーシングなどで雇われてそういう記事を書いている人もいるんだと思います。

私が今後フリーランスとして立ち行かなくなったとしても、絶対にそんなお金の稼ぎ方はしたくない。
新聞社や出版社で情報を発信してきた身として、これは譲れない矜持。そしてフリーランスになった自分への戒めでもあります。
クソ記事は絶対に書かない!
(※ここでいうクソ記事の定義は、「転載とコピペばかりの中身のない記事」であり、「ちゃんと書いたうえで、内容がクソ」の場合は、クソ記事には該当しませんのであしからずご了承ください。)

きっと同じ思いを抱いている、同業者の方って多いはず。
共感してもらえるとうれしいです。

おわりに

 

最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。
「文章で誰かの心をふっと軽くする。」
そんなことを目指して、記事を書いていこうと思います。

また遊びに来てください!獅子まいこでした。

 

Twitter:@shishi_maiko223
https://twitter.com/shishi_maiko223

(たまーに、雑誌や週刊誌の記事について感想をつぶやいています。)

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【エッセイ】実家大好き女

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約1年前の年末年始は実家に帰省していた。
年が明け、とうとう迎えた帰京前夜のこと。
途方もない寂しさに襲われた私は、自室のベッドの中で人知れずしくしく泣いていた。

実家を出た直後の大学1年の夏休みは「早く東京戻って遊びてぇぇぇ」「田舎すぎてつまんねぇぇぇ」なんて息巻いていたけど、3年生ぐらいから突如寂しさが上回るようになっていた。

とはいえ「26歳にもなって、家族恋しくて泣くなんておかしいんかな…私」と、思わずスマホで「実家 帰省 寂しい」と検索した。トップに表示されたヤフー知恵袋を開くと、私と全く同じ心境の人が質問をしていた。

「実家に1週間帰省していて、いま家族と別れました。
すごく寂しいです。上京して3年、一人暮らしは慣れたけど実家はやはりあたたかい。また明日から仕事かと思うとなんだか辛くて。(中略)
弱い私に励ましをください。」<引用元


ベストアンサーにはこの回答が選ばれていた。

「お辛いですよね。
でも、見送る立場も言葉では言い表せないほどの寂しさ感じるものです。

帰る日の朝まで寝ていた、まだぬくもりの残っている布団を片付けるどころか、放置しています。なるべく見ないように触れないようにして過ごすんです。

『着いたよ。ありがとう』の、言葉を聞いて隠れて泣いてます。絆は、そうして深まって行くものです。

寂しいのは、あなただけじゃないんですよ。親も必死に堪えているんです。反面、大人になっていく我が子を誇らしく思うものです。」 <引用元

 

向こうの部屋で寝ている母の姿を頭に浮かべると、さらに涙が込み上げて来てしまう。頬を伝って耳の中まで入って来た涙を必死でティッシュでぬぐった。
明日夜、東京ついたらちゃんと電話しよ。
足元の湯たんぽのぬくもりを感じながら眠りについた。


翌朝。帰省中の私の朝は遅い。

父・母・愛犬の中でもっとも遅い朝食を、1人でゆっくり食べた。

洗面所に向かう途中、自室のドアが開けっぱなしになっていることに気がつき、ふと覗いてみた。


そこにあったのは、緑色の床板カバーが丸見え状態のベッドフレームだけ。
マットレスは全開の窓の横に立てかけられている。

私のぬくもりが残っていた布団たちは、すでに天日干しされたあとだった。

母の朝は早い。

キッチンに面した窓から裏庭をうかがうと、風になびく洗濯物たちと一緒に敷ふとん・敷布団パッド・掛け布団・毛布が物干し竿にキレイに連なっていた。

ウッドデッキのテーブルの上では、枕が日光を浴びている。
その隣で、私の毎晩の相棒だった湯たんぽも口を開けて乾燥させられていた。


母らしくて、少し笑ってしまった。

毎回、私が帰省する日に合わせ、娘の部屋にふかふかの布団を敷いて待ってくれている。


今回もそうだった。冬の布団の一瞬のひんやりした感触のあとに訪れる、おひさまの香り。

私の布団のぬくもりは、母のぬくもりでできていた。

 

デスクに戦力外通告された話<#9>

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勤務中にデスクからの電話で過呼吸になり、自分が担当している警察署に救急車を呼ぶという、前代未聞(自称)の失敗をやらかした。

yutori-zaregoto.hatenablog.com

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 夜討ち朝駆け(あんまりしてなかったけど)、毎朝毎晩の署まわり、副署長からのお説教、地取り、丸一日以上家に帰れない事案、遺族取材、深夜の呼び出し、オンもオフも関係なく鳴る社用ケータイ、アルコールを飲む予定は事前にデスクに報告、休日に管轄外に出るときも事前にデスクに報告(=プライベートの予定が筒抜け)、土日出番で誰にも「替わって」と言い出せず参列できなかった姪っ子の七回忌…。

 

これら警察担当独特の慣習に加えて、月1回の宿直で右も左もわからず本社デスクに叱責される恐怖、飲み会で身体接触してくる某男性デスクとそれを黙殺する会社への恐怖、災害取材時に豪雨の中で一人「これ流されたら誰にも発見されないぞ」と感じた恐怖…

 

たった2カ月で、心身が疲弊しきっていた。

運転中、「このまま右折せずに河川敷につっこんだら」「ブレーキじゃなくてアクセル踏んで遮断機突っ切ったら」と頭によぎることは日常だった。交通事故に遭った子どもの記事を書いていると「私が身代わりになってあげればよかった」という考えに心を支配され、帰り道に涙が止まらなくなったこともある。

 

その結果として、“デスクから叱責の電話”がトリガーになり過呼吸という体の異常が現れたのだと思う。

 

でも、記者職を希望して入社し、警察担当に配属になった以上、たった2カ月で音を上げた私は新聞記者失格。

やや大仰に大変だったことを書き連ねたけど、たぶん人によっては「大したことはない」と思うだろうし、記者として当たり前に果たすべき仕事であることは間違いない。なのに私は「当たり前にできる」「まあ頑張ればできる」ことが極端に少なかった。それは私の能力・キャパ・精神力に問題があったと、今でも当時でも思っている。

f:id:leoleolion:20201209222439p:plain過呼吸になり病院に運ばれたのは木曜日。金・土・日・月と計4日間の休みをもらった。

(手帳を見返すと、月曜はもともと特休:休日出番の振り替え的なやつ、だった)

 

火曜日、会社近くの心療内科へ行った。

会社としては“運転中に”過呼吸になったことを問題視していたようで、「今後も業務中に運転をしてもいいのか否か」の診断書をもらってくるように言われた。

 

診断書には「過換気症候群」と書かれた。

 

か・かんき・症候群…?

過呼吸のこと、そんな病名(?)で呼ぶんだ、と思った。

 

車の運転についても「会社がこう言っているので診断書に書いてください」と医者に言うと、云々かんぬん言って面倒くさがられた。医者は「『運転大丈夫です』と言って、あなたが万が一事故を起こしたときに責任取れない」ということを遠回しに遠回しに言った。会社と医者の責任のなすりつけあい的なことの狭間で、私も「別に運転自体は過呼吸に関係ないと思うけどな~」とも思った。

結果、診断書には「しばらく運転は様子を見る」といった文言で落ち着いた。

 

仕事上での過ごし方のアドバイスなどもデスクにも伝える必要があるかと思い、医者の言ったことのメモを取っていると「なんでメモなんか取るんだ!」と怒られた。よく意味がわからなかった。散々な初・心療内科受診だった。

 

その診断書をデスクに提出し、人事部長とも面談をした。

救急車で運ばれたのは6月23日。まだ試用期間中のことだったが、私が最も恐れていたクビは免れた。社会部警察担当の所属もそのままだった。

 

ただ、診断書通り「しばらく運転お休み」を告げられた。

「運転お休み=署まわりもお休み」を意味していたので、署まわり大嫌いマンの私は心の中で飛び上がって喜んだ。

しかし、同時にそれは私の「サツ担記者としての存在意義」も“お休み”になることを意味していた。

 

 

救急車で運ばれて以降、複数回デスクと県警近くの喫茶店で話をした。内容はほとんど日記に残せていないので、どの面談のときに何を言われたのかは正確に覚えていない。

日記に残せないほどのダメージを毎回食らい、記憶から消し去りたいほど、つらい時間だったんだと思う。

 

デスクから、今後の働き方の注意点を言われた。今の体調や、毎晩寝られているのかとか、いろいろ聞かれた。そんなところまでは良かった。

 

「なぜ過呼吸になったと思う?」との質問には、「企画記事の取材がうまく行かないこととか、いろいろなことが重なり、いっぱいいっぱいになってしまっていた」というようなことを答えた。

 

「今までの獅子は、そういう(精神的に弱い)タイプだったのか」という問いは否定して、「意外かもしれないが、昔はわりと自分に自信がある人間の側だった」と言った。

努力が報われる世界ではそれなりに努力してちゃんとその成果を掴んできた、向上心の強いタイプだと自負していた。といってもそれが当てはまるのは高校受験、大学受験ぐらいだが。就活もまあ、第一志望の会社ではないけど、一応夢だった新聞記者にはなれたし。

 

中学・高校は運動部の部活で顧問には死ぬほどしごかれて育ったこと、大学生のバイトでは店長にそれなりに怒られたこと、など「怒られ慣れていない」タイプでもないことも伝えた。

 

 

そしてデスクは「そもそもなぜ新聞記者になりたいと思ったのか」と聞いてきた。

 

―――???
―――久々のこの感じ……採用試験の面接か!?

 

就活生のころの記憶をまさぐり、大学で学んだことも挙げながら「社会的に弱い人、声を上げたくても上げられない人の声をすくい上げるような記者になりたいと思ったから」と答えた。

 

そして、こう続けた。

 

「でも、先日の遺族取材はうまくいきませんでした。遺族の方の怒りやつらそうな言葉に触れると、それ以上どうしても踏み込めない自分がいました。だから、もしかしたら、『弱い人の声をすくい上げたい』というのは、私の独りよがりなのかもしれない、私にはできないことなのかもしれないと、自信がなくなっています。」

 

さらに、最近強く考えていたことも、ついでに言った。

それは「若い人たちにも興味を持ってもらえるような記事を書きたいと思うようになった」ということ。

 

きっかけは、4月の社員総会で会社のお偉い人たちが言っていた、発行部数低下の要因についての発言。

・専務「難しい言葉が多いから、簡単な言葉を使うようにするといい」「月1万円もスマホ代に使うのに、月たった3000円も出さないなんて理解できない」

・編集局長「若い人に読んでもらうために、工夫すべきはやはり地方紙の強みである地方面。中でもおくやみ欄」

 私の眼には、彼らは若者が新聞を読まない理由を本気でわかろうとはしていないように映った。「そこ?」「は?」「あと20年もしたらメイン購読層ごっそりいなくなるのに、そのころには自分も会社にいないだろうからってこんなんでいいの?」と強く疑問に感じるようになっていた。

デスクには「新人や若手の声を誌面に反映させるような機会があったり、他社みたいに担当関係なく好きなテーマで記事を機会があったらいいのにと思っている」と伝えた。

 

デスクの返事は、こうだった。

 

「心から、本気で社会的弱者の声を拾いたいと思っていた人が、今度は『若い人に新聞を読んでもらえるように』なんて思うわけがない」

「お前の新聞記者としての気持ちは中途半端なものとしか思えない」

 

――返す言葉がなかった。面接は面接でも、圧迫面接だった。

 

 

デスクは静かに言葉を発する人だった。

そして、ときおり、なんの熱も感情も感じ取れない言葉を口にすることもある。

 

面談を終え、喫茶店での会計を済ませて県警に帰る道すがら。猫背気味のデスクは私の半歩先を歩きながら、目も合わせずこう言った。

 

「獅子は本当にこの仕事に向いているのか、本当に続けたほうがいいのかも含めて、お母さんともしっかり話し合ってみるといいと思うよ」

 

さらっと、捨て台詞みたいに吐いた。私の歩みは止まり、半歩先のデスクとの距離は少しずつ開いていった。

 

 

戦力外通告そう私は受け取った。

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デスクからの言葉に絶望した私は、完全に新聞記者としての自信を無くし、この1年数カ月後に社を去ることになる。

 

デスクの「お前に新聞記者の適性はない」という忠告が当たったことになるのか、はたまたこの発言によって「新聞記者を辞める」という私の決意が固まったのか。

どちらが先なのか。それはもう「卵が先か鶏が先か」と同じでよくわからない。

 

「そんなに熱意があったなら、態度と実績で見返してやればいいのに」と思う人もいるかもしれない。そうすべきだったと思う。もっと昔の私だったらそうしていた気もする。もしまだ私が新聞社に残っていたら、今ごろ笑い話としてデスクと酒でも酌み交わしているかもしれない。でも、できなかった。

 

そもそも、当時喫茶店で私がした話も、どこまでが本音でどこからが建前なのか、自分でもよくわからない。

 

 

今回の「過換気症候群」に加えて、さらに私はこの後、心療内科で2つの診断名(?)が下される。あえて病名は言わないけど、1つはこれからちょうど1年後、警察班から行政班に異動してから。あと1つは転職し、出版社で働いてからのこと。

 

出版社での激務で再び心も体も壊れ、自宅で過呼吸に襲われながらベッドで泣きじゃくっていたとき、デスクの顔が浮かんだ。

このまま人として再起不能になるか、または生きることを辞めて、そのことを彼が耳にしたら。悲しんでくれるのだろうか、反省するのだろうか、私を憐れむのだろうか、責任を感じるのだろうか。

 

―――おそらくどれも当てはまらない。きっと彼は私のことを覚えていないし、覚えていたとしても私の未来に関心なんてない。

だから、デスクのことを恨むのは辞めた。後にも先にも、「私がこうなったのはこの人のせい」「謝ってほしい」と思ったのはその一瞬だけ。たぶん。

 

今は、心から、デスクには感謝している。

戦力外通告しておいてなお、こんなゆとり・ポンコツ・ヘタレな新入社員を1年間サツ担にいさせてくれたから。

彼はめちゃくちゃ優秀な記者だったと、社内のいろんな人から聞いた。この年は、彼にとってもデスク1年目だった。マネジメントしにくい部下を持つことになって、本当に気の毒だと思う。…当時はそんなことにまで考えが及ばなかったけど。

 

使えない新人で本当にすみませんでした。

ただ、在職中に命を絶たなかったことだけでも、いつか、褒めてくれるとうれしいです。

 

 

 

<続く>

 

 

 

▼▽お詫びタイム▽▼

 

鬱々しい内容で、読んでいて気分を害された方がいらっしゃったらすみません。

 

私がこのnoteで新聞記者時代の日記を書こうと思った理由は、2つありました。

1つは、私と同じようにつらくて大変な体験をしている・した方の心が軽くなればという思い。2つ目は、新聞記者などのマスコミを目指す学生さんに、リアルな状況を少しでも感じてもらって、私のように「理想と現実の間」で悩み苦しむことが少しでもなくなればという思いです。

 

最近、もう1つあることに気がついたんです。

 

あれだけ憧れてやっと叶えたはずの新聞記者という仕事と、自分の適性や精神力との深い深い断絶。数年経ち、ゆっくりと思い出しながら言語化することで、“心の傷”から“人生の通過点”へと昇華させているんだな~と。

 

う~ん。うまく表現できないんですけど…。

 

たぶんまだまだ書けることはあるので、もう少しお付き合いいただけると嬉しいです。

そしてできれば、優しいまなざしで読んでいただけると嬉しいです。

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

獅子まいこでした。

 

【エッセイ】神頼みしない人

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尊敬する人がいる。ここでは、Aさんと呼ぶ。

以前から知っていた人だけど、最近人柄を深く知ってから完全に心を掴まれた。どこをどう掘り下げても深みがある。信念がある。そんな人。

 

Aさんと自分を比べたとき、私は今まで積み上げてきた物もこれから積み上げようとする物も無いことに気付かされる。人間としての差を見せつけられて、かなり凹んだ。

 

そんなAさんは先日、絵馬に「俺の夢は 俺が叶える」と書いていた。

 

カッコつけているだけかもしれないし、そういう“おもしろノリ”だったのかもしれない。まあ、そうだったとしてもブレない姿勢がなんか素敵だと思えた。漠然と、「あぁ、私も来年初詣で行ったら同じこと書こうかな~」なんて、イタいことを考えている。

 

 

合格祈願とかクソくらえ

 

ここで、私のこれまでについて書く。

 

私は田舎で生まれ育った。

 

とにかく娯楽がない。

最寄りの映画館は、隣の市のイオンシネマ。1時間に1本の鈍行電車に30分乗り、さらにそこからバスで20分揺られた先にある。車を運転できないと人権はない。

一応、市内にもイオンはある。徒歩40分、またはチャリで20分。市内の中高生にとって、唯一無二の青春を謳歌できるスポットだ。プリクラ撮って、ファミレスでドリンクバーで粘りながらひたすらダベる、それぐらいしかやることはないが。

そのイオンは昨年潰れた。

 

物心ついたときから、都会でキラキラした生活を送ることが夢だった。いわゆるマイルドヤンキーな兄2人とは違い、一刻も早く地元を飛び立ちたくてたまらない末っ子だった。

 

テレビや雑誌やラジオが好きで、ずっとなんとなくマスコミに携わる仕事がしたいとも思っていた。必然の流れで、大学は首都圏にあるところを目指した。第一志望は中3で決まっていた。

 

 

高校3年生のお正月。

センター試験を2週間後に控え、受験勉強も佳境。「今年はガキ使フルで見ません!」と宣言しといて、リアタイで全部見た。

 

我が家は、なぜか昔から初詣に行く風習がなかった。

クリスチャンというわけではない。でも兄の結婚式はチャペルだった。葬式は仏式。七五三の写真は残っている。毎年神社で行われるお祭りには積極的に参加していた、特に兄が。

つまり、「初詣に行かない理由」は「ただただ寒いから家でゆっくり過ごしたい」、ただそれだけだったんだと思う。あと、母は箱根駅伝が大好きなのも一因かもしれない。

 

そんな母が、受験生のその冬だけ「合格祈願でも行く?」と聞いてきた。

私は「行かない」と即答した。母は、娘の反応は予想通り、という顔だった。

 

テレビを見ていると、地元テレビ局のフラッシュニュースが流れた。お正月三賀日、初詣客でにぎわう県内の神社からのリポートだ。境内で手を合わせる人たち、レポーターにインタビューされる受験生、嬉しそうにお守りを購入している同世代らしき女子。

 

そして、「第一志望絶対合格!」と書かれた絵馬のインサートが映った。

 

私は隣にいる母にこう言った。

 

「受験生ならさ、初詣行く時間で勉強したらいいのに。

神様にお願いする前にさ、まず己で努力するべきでしょ。

しかもこんな人混みでさ、インフルでももらってきたらどーすんだろーね。」

 

 

当時の私はちょっと変に尖っていた。

生きとし生ける全受験生にマウントを取りたいだけの、今思えば恥ずかしい18歳だった。

母はそんな私の性格をよく知っているので、「あんたと違って、もう神に頼むしか救いがないような子なのかもしれないよ」と笑って返した。

 

私が通っていた高校は、実家から徒歩5分のところにある。偏差値50の、自称・進学校だ。

 

センター試験は過去最高得点をとれた。

第一志望である某国立大学の前期試験と後期試験に願書を出した。

 

滑り止めとして私立大学の願書は1校も出さなかった。理由は、意味がないと思っていたから。中3で決めた第一志望校に行く以外、人生の選択肢は無いと思っていた。

 

まあ、家庭の経済状況もある。母には「国立大学しか行かせられない」と刷り込み教育されていた。とはいえ、そこへの不満はなかった。

 

もし、第一志望校に前期も後期も落ちたら「1年間ここでバイトしてお金貯めて、東京行く」という、「いつの時代の夢追い人だよ」なことを本気で考えていた。浪人も視野に無かった。親に頼めば浪人させてくれていただろうとは思う。ただ、母に当時のことを聞いたとき「落ちる気がしなかった」と言った。私もそんな気がしていた。

 

センター試験後の面談で、担任には「獅子は本当に3年間頑張ったから、合格の喜びを味わってほしいんよ。だから、中期試験で〇〇大学を受けてみたら?お金がないなら、先生が受験料も旅費も貸す。大人になってから返してくれるのでいいから」と言われた。

 

行きたくもない市立や公立の大学をむりくり受験させて「国公立大学の合格率が93%!」とか銘打ちたがる、自称進学校あるある大作戦。第一志望校に受からないって遠回しに言われているのが悔しくて、職員室でケンカして、号泣しながら帰宅した。

 

前期試験で受かった。

 

合格発表直後に髪の毛を染めるという、田舎JKの通化儀礼を終え、春休み中の職員室に挨拶に行った。部活の顧問・受験教科を持ってくれた先生・お世話になった体育の先生たちに褒められ、喜ばれ、最高にちやほやされた。担任とは目を合わすことなく、職員室をあとにした。

 

18歳の冬。

神様にお願いするよりも、自分で努力したほうが何倍も確実で信頼できることを知った。

 

 

もはや努力ではどうにもならない

 

大学生になり、私は新聞記者を目指し始めた。第一志望の新聞社には受からなかったが、記者にはなることはなれた。

行きたかった新聞社に受からなかったことはプチ挫折だったが、ここでもまた、努力は報われることを再実感する。

 

しかし、新聞記者になってすぐ、もう努力ではなんともならない世界があることを知った。

 

23歳とはいえ「自分の人生は自分の意思と努力で選んできた」という自負があったからこそ、新聞記者としての挫折は大きかった。

 

初心に帰り「東京でキラキラした生活をする」夢を打ち立てた。これもまたすぐ叶えて、雑誌編集者としての第2のキャリアを歩み始めた。

しかし、ここでもまたうまくいかなかった。いつのまにか、心も体もボロボロになっていた。

 

 

夢とか努力とか目標とか、社会の波の藻屑となって消え去った。25歳の冬のことだった。

 

 

 

今年はじめ、フリーになった。とりあえずは順調に生きられている。

 

でも、未来の自分の可能性に期待するのはもう辞めた。自分の人生に諦めをつけたフシもある。大きな夢を掲げて、努力できる力も残っていないし、過去の自分の選択に悩まされる未来がまた来るかもしれないのが少し怖い。

 

そんなふうに思っていたときに、Aさんの絵馬を見た。

 

「俺の夢は 俺が叶える」

 

神様に頼まず愚直に努力していた高校生の頃の自分を思い出した。

今の私とAさんは人間として差つきまくりだけど、高校生の自分なら張り合えていたのかもしれない。うぬぼれだけど。

 

今、叶えたい夢は浮かばない。

 

ただ1つだけ思ったことは、何歳になっても、Aさんような生き方をしたいと思った。

仕事になろうがならまいが打ち込めることがある。自己研鑽を続けられる。その道のプロフェッショナルになる。自分の仕事に誇りを持つ。

 

 

神様には、家族の健康と幸せをお願いしようと思った。

 

 

 

▽なんとなく追記

 

実はこれでも、新聞記者になったことも、雑誌編集者になったことも、1ミリも後悔はしていません。強がりじゃないよ。

苦しみの渦中にいるときは生まれてきたこと自体後悔することもあったけど。今、本当の意味での後悔は全くありません。

 

DMで「転職や独立したこと後悔していないんですか?」ってよく聞かれます。ない。マジでない。

「後悔する瞬間はあるけど、本当の意味で後悔はしていない」=つまり、ない。質問者の方と考え方が根本的に違うからか、うまくこのニュアンスをわかってもらえなくてうずうずしちゃう。

 

今、転職やキャリアチェンジで悩んでいる人。家族がいる人は状況が違うので一概には言えませんが、未来に1思うかもしれない後悔のために、今感じる100億の苦しみに耐える必要はないよ~って、心から思っています。